私が #おっさんずラブ を好きな理由と新作発表にショックを受けたわけ
■はじめに
「おっさんずラブ」のSeason2が「おっさんずラブ -in the sky-」という、Season1とは別次元の、パラレルワールドの物語であることが発表になって1週間。正直なところ、寂しいと感じる日もあれば、吹っ切れている日もあるし、日によって、もっと言えば一日の中でも時間によって目まぐるしく自分の感情が移り変わっている。
TLには様々な意見が溢れ、それぞれに寂しさ、つらさ、切なさ、あるいは前向きに応援していきたいという気持ちに向かい合っているように思う。
そのような日々の中で、ふと、私は一体このドラマの何が好きだったのだろうと思った。
そして、それこそが一番大事な軸なのだとも思った。きっとこれこそが私の感情が揺れ動く理由に他ならないからだ。
今回の発表について色々な考えがあると思うけれど、結局最後は自分の心の問題なのだと思う。だから、自分の気持ちを整理するために、なぜ私はおっさんずラブが好きなのか、そして今回のin the skyの制作発表で、一体何にそこまでショックを受けたのかを書き残しておきたい。
#おっさんずラブ 最終話、ご覧いただきありがとうございました🙇♀️
— 【公式】おっさんずラブ✈️アカウント (@ossans_love) June 2, 2018
クランクアップを迎えた林遣都さんは「圭くんと出会えて本当に良かった」と涙を堪えながら挨拶。そんな林さんを力いっぱい抱きしめ肩をトントンと優しくたたく田中圭さん。その腕の中で、林さんは穏やかな笑顔を浮かべていました pic.twitter.com/aToWDgEyUJ
(今は懐かしき、最終話放送後のツイート。すべてはここから始まったのかもしれない)
■おっさんずラブというドラマ
私は2018年版の連続ドラマを1話からリアルタイムで見てきた。しかし、正直、面白いとは思っていたが、5話までコメディドラマだと思っていたので、ハマるようなことは無かった。もっと言えば、1周見終わるまで、ずっと春田創一と黒澤武蔵のコメディだと思っていたくらいの、当初はライト層だった。もともとBLにも興味がなかったので、田中圭と林遣都のキスシーンを見ても、こういうシーンを入れれば視聴者が喜ぶんだろうな、くらいにしか思っていなかったし、同性同士の恋愛を描き切るようなことをキー局がするとは思えなかったから、最後は春田とちずをくっ付けるのだろうとすら思っていた。
おそらく、in the skyがターゲットにしているのは私のような層だと思う。それでも私はコメディが面白くて、毎週欠かさずこのドラマを見続けてきた。
そんな私のドラマに対する印象が大きく変わったのは、6話における牧凌太と、7話における春田創一に感情を突き動かされたからである。6話の牧凌太の嫌みの無いかわいらしさ。健気さ。7話の春田創一が、教会でのキスを前に自らの気持ちに気が付き、夢から覚めたように主体的に動き始める、あの瞬間。林遣都、すごい。田中圭、すごい。昂る気持ちを抑えられなかった。
そして、7話のラストシーン。春田創一が牧凌太への恋心に気付き、自らキスしたいと思うあの瞬間に、めちゃくちゃ衝撃を受けた。「とんでもないドラマを見た…」と震え、その日は目が冴えて眠れなくなってしまった。あのあと、春田と牧はどうなったのだろう。ずっと一緒にいたいと願った春田が、キスがしたいと思ったその先は。キスがしたいと思った牧が、春田とずっと一緒にいたいと願える日は来るのだろうか。
もともと、自分にとって理解できないことを言葉に整理し、ブログという形に吐き出すことが習慣になっていたので、当時もこのドラマの凄いと思ったことを言語化して、私の中でこのドラマは落ち着いたはずだった。
でも、それで終わらなかった。春田と牧はどうなったのだろう。幸せの端緒をつかんだ彼らの先を見てみたい。彼らの恋が深まっていく過程を見てみたい。
そう思わせたのは、間違いなく田中圭と林遣都の芝居が素晴らしすぎたからだと思う。
■田中圭と林遣都
前述したとおり、私はこのドラマをコメディだと思って見てきた層である。そのため、7話で自分の見えていた世界が全てではなかったことにようやく気付き、翌日、朝から全話見返した。コメディだと思っていたドラマには、実は春田と牧が恋をしていくという一本軸が通っていたことを知り、高揚感が止まらなかった。ああ、やられた、と思った。このドラマはコメディに偽装した恋愛ドラマじゃないか。コメディとして面白いと笑ってきたのに、一夜で物語の意味がすべて変わってしまったことに衝撃を受けた。
6話における牧凌太の説得力を出すために、周到に準備された林遣都の演技。演出。メイク、ヘアメイク、スタッフさんたち。相手のどんなセリフも動きも受け止めてしまう、田中圭の演技。その一方で、自分の想いに気が付き動き始める瞬間の、彼の本音が曝け出されるような魅力。
「とんでもないドラマを見た…」と震えた衝撃は、全く収まらなかった。見返せば見返すほどに、私はおっさんずラブの世界に引き込まれた。知れば知るほど、田中圭と林遣都の芝居の面白さに引き込まれていった。
お芝居とは、演技とは、感情が動くということ。そして、見ている人の心を動かすということ。
おっさんずラブというドラマは、お芝居というものの持つ魅力の原点を教えてくれたのだ。
だから私にとっておっさんずラブの魅力は、田中圭と林遣都の、感情を動かすお芝居。
ひとつはこれに尽きる。劇場版でも素晴らしかった。好きなシーンは挙げたらキリがないけれど、花火大会で牧の嬉しそうな顔を見て心が動き手をつなぐシーン、不安から相手を傷つける言葉を選ばざるを得ない喧嘩のシーン、言葉がひとつもないのに感情が痛いほど伝わってくるスタートミーティングのシーンは特に大好きである。
in the skyが発表になったときに一番に思ったことは、もしかしたらもう二度とこの二人のお芝居が見られないかもしれないという大きな喪失感だった。
彼らは、状況に対して芝居をしない。感情が乗らない言葉を言わない。いつでも、目の前の相手の感情に対して演技をする。どんな荒唐無稽な場面でも、二人がいると(もっといえば、鋼太郎さんもそうなのだけど)、そこに春田と牧のリアリティが生まれてしまう。だからこそ、劇場版おっさんずラブは爆破という非日常シーンを選べたのだとすら思う。どんなに非現実的な場面でも、この二人はそこに春田と牧ならば絶対にこうするだろう、という説得力を生み出してしまえるのだ。
春田と牧の、そこにある感情が本物だから、何度見ても面白かった。見るたびに引き込まれるし、どうしてそんな気持ちになるのだろうと心を寄せずにはいられなかった。
感情とは、その人自身、その人そのものだと思う。二人の間の感情が本物だから、春田と牧にはあんなに説得力があるのだ。そして感情、ひいてはその人のパーソナリティというものは、一人では生まれない。誰かと誰かの間に生まれるものだ。田中圭も林遣都も、それをよく理解している役者だと思う。春田と牧は、どちらかだけでは生まれなかっただろう。田中圭と林遣都、春田と牧、この二人の間だからこそ生まれることができたのだ。
大好きな二人をもう見られなくなるかもしれないという喪失感。それに伴う寂莫の想い。これがとてもつらかった。
■「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望
そしてもうひとつ。何よりもおっさんずラブというドラマは、私にずっと希望を抱かせてくれる存在だった。
今まで散々書いたとおり、私は7話で恋愛ドラマとしてのおっさんずラブに落ちてから、もう一度二人のお芝居を見たいと、そして何よりも春田と牧の未来を見てみたいと願ってしまった。それはシンプルに、幸せそうな二人を見ていることが、私にとっても幸せだったからである。もっと言えば、人を好きになるってこんなにも素敵なことなんだ、という暖かい気持ちをいつもくれたからである。初めて人を好きになった時のような純粋な幸せ、人をまっすぐ信じられる喜びをこのドラマはたくさんくれたのである。
今でも忘れられないのが、最終回から1週間後の6月9日(土曜日)のことだ。
もう放送は終わっているのだから何かあるはずもなかったのに、TLがなんとなく浮足立っていた。当時の私のツイートがこれだ。
誰かが先導したわけではなく自然にこういうタグがいっぱいできて、示し合わせたわけでもないのにみんなそうなると信じていて、当然のように今日祭りを起こす気でいるOL民たちの見えない結束力は本当にすごい。#おっさんずラブ#おっさんずラブ感謝祭 #6月9日23時15分作戦決行
— あんにん (@mgmgannin) June 9, 2018
あのブラックアウトの先を望んだ多くの人たちが、自然発生的にこうしたタグを作り、TLに集まり始めた。もう一回、トレンド1位を取ろうと。最終回が終わったドラマがトレンド1位を取ったらすごいと。夕方、夜…時間が経過するにつれて、何か起きるのではないだろうかとTLが不思議な期待感にあふれ始めたその時、公式がこうツイートした。
座長・田中圭さんのクランクアップ時のコメントです。
— 【公式】おっさんずラブ✈️アカウント (@ossans_love) June 9, 2018
「すごくすごく幸せな環境でお芝居をさせていただいているな、と毎日感謝しながら過ごすことができました。本当に幸せな時間でした。みんな大好きです!」#はるたん#田中圭#おっさんずラブ pic.twitter.com/TpTMtZteyW
公式がツイートし始めたのである。それも一回限りではない。時間を置いて何回も。刻々と迫る23時15分に向けてツイートし始めた。みんな思っていたと思う。あの公式さんなら、きっと何かやってくれると。そして、その時間に投稿されたのがこのツイートだった。
#おっさんずラブ#forever… pic.twitter.com/WdFfpYLguV
— 【公式】おっさんずラブ✈️アカウント (@ossans_love) June 9, 2018
この日は、「#おっさんずラブ8話」とタグを入れて、みんなで妄想の8話をツイートし合った。上海に行った春田はどうなったのだろう。牧はどうしているのだろう。第二営業所のみんなは…徳尾さんも混じって約40分間。そこには田中圭も林遣都も吉田鋼太郎もいなかったけれど、私たちの心の中には確かに春田も牧も黒澤もいたと思う。
あの瞬間、少なくとも私にあったのは、ただただ公式への感謝の気持ちだった。感謝と、何か起きたらいいのにという純粋すぎる願望だった。そしてそれを公式は、そのとき公式にできる限りの中でかなえてくれて、私たちに希望を見せてくれた。
私はこのときの喜びが、おっさんずラブというドラマにおける公式と視聴者(OL民)の関係性の、原点だと思っている。
劇場版おっさんずラブを作ってくれたことは本当に嬉しかった。あの二人のその先を、映像で見ることができたから。でももしかしたら、続編が無かったとしても、私は幸せだったかもしれないと思う時がある。
劇場版のプロモーション期間中、公式は毎日追いつけないほどの情報を供給し続けてくれたけれど、それまでのこの沼は1月に1~2回程度の供給ペースだったのではないかと思う。公式がツイートしてくれる写真に喜び、圭さんがドラマを振り返り「けんと」を愛おしそうに語るその言葉に、牧への恋に気付いた春田のその先を感じた。
私たちが欲しかったのは、確かにあのドラマの続編だったけれど、本当はそういう「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望だったのではないかと思う。そして、OL民と呼ばれるようなファンを結び付けていたのは、他でもないこの希望だったのではないだろうか。だからこの沼は優しさに満ち溢れていた。
私がこのドラマが凄いと思ってきたのは、ドラマが終わって映像が作れなくなってもなお、この希望を制作側がファンと共有してきたことだ。「#おっさんずラブ8話」に始まり、「#黒澤武蔵誕生祭2018」には武蔵の部屋が更新され、春田に振られたその後の黒澤を私たちは感じられた。私たちが大好きな天空不動産第二営業所の面々は、今日もどこかで楽しくやっているのだろうと、思わず感情移入してしまった。
だから、私はin the skyが発表になったとき――いやもしかしたらその数日前の武蔵の部屋の更新から――悲しかったのだ。そこには、その先の希望を感じられなくなってしまったから。「完結」の二文字は、「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望を消し去ってしまった。
正直、in the skyが無くても、もう天空不動産編に続きが作られることは無かったのではないかと思うときがある。映画を見たときにも、「ああ、これは本当に完結なのだろう」と何度か思ったのも事実である(それでも、ポジティブなのでいつかまたという可能性を捨てられなかったし、今も信じている。というよりも、そうやって信じることが幸せなのだとも言える)。春田と牧の気持ちは、「死んでもずっと一緒にいたい」と言わせるまでに深くなってしまった。今後、描くことができるとしたら二人の関係ではなく、二人と社会の関係になるだろうけれど、この過渡期にそれを触れることは難しい問題もたくさんある。だから、いずれにせよ、春田と牧の続きは、もう無かったかもしれないと思った。
それでも、「完結」と同時にパラレルワールドの新作を発表したことで、未来への扉をしめ切ってしまったような、蓋をしてしまったような、そんな印象を抱いた。「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」と想像していた未来は、もう二度とこないのだと。
私たちは、ドラマが終わった時のように、「こんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望を抱く余白を無くしてしまった。各々の心に抱いていた天空不動産の物語が突然終わりを突きつけられた。続きを想像する自由、その前提となる続編に対する一縷の可能性、これが突然失われたこと。本当に続編があるかないかということよりも、これが一番堪えたのだと思う。
■期待感に対してお金を払わせるビジネスモデル
また、ドラマが終わってからの1年3か月、「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望こそが、おっさんずラブというコンテンツビジネスを支えてきた原動力だったとも思う。一言で言えば「期待感」である。続編そのものではなく、この「いつかこんな未来=続編があるかもしれない」という期待感に、多くのファン(民)がお金を惜しまなかったのではないだろうか。
正直、テレ朝がこれを狙ってやったのだとしたら、私は天才だと思う。お金を使ってきたことは各々の自己責任だろう。それは認める。そして、相手はビジネスでやっている。これが前提であることは重々分かっていても、期待感にお金を使わせたり、認知度向上を図ったりしたその結果、パラレルワールドの新作を作って、視聴率を取りに行こうとする、つまり最終的な目的はin the skyの高視聴率とおっさんずラブのシリーズ化だったのか、と思わされるようなビジネスモデルは、どうなのだろうと思わざるを得ない。どうしても理解はできても共感ができないのである。
低視聴率だった2018年版ドラマはコンテンツビジネスとして成功をおさめ、その続編である映画で一般認知度向上を図り、話題のピークで新作を投入することで高視聴率のシリーズ化を狙う。経営的観点から見たら大正解なのかもしれないけれど、これだけ制作側と視聴者が感情的な交流を積み重ねてきただけに、それをすべて「高視聴率の新作ドラマ及びそのシリーズ化」の手段とされてしまったように感じたことが、理性的には上手いやり方だと思うのだが、感情的に納得がいかないのである。
ただこれについては、これまでの制作側と視聴者の方向性が偶然一致していたというだけなのだろう。私はこの感情的な交流に、マスメディアの在り方を変える可能性すら感じていただけに大変惜しいと思ったけれど、たぶんそれも身勝手な勘違いだったのだと思う。現時点では、そう思うしかない。
■おわりに
以上が、今回の一連の騒動に対する、私の気持ちの整理である。
決して誰かを傷つけたいわけではないし、公式やテレ朝を批判したいわけでもない。キー局は大きな組織だ。多くの関係者との調整を経た結果の最適解が今の形だったのだと思う。
あれから1週間経ったものの、私の中にはまだなかなか希望が戻ってはこないけれど、いつかまたこのドラマに、春田と牧の二人に、そして田中圭と林遣都の二人各々に、「もしかしたらこんな未来をいつか見られるかもしれない」という希望を抱ける日がくることを願っている。
※なお、本記事はあくまで「私」の自己世界について書いたものである。
今回の騒動の受け止めは人それぞれ異なることだと思う。なるべく「私」の一人称で、私が受け止めて感じてきたものとして書くようにはしたけれど、それでもきっと「そもそも認識がおかしい」とか「私はこんな風に思っていない、総意のように書かないで欲しい」というご意見もあるかもしれない。私も、誰かの悲しみや切なさを否定するつもりはないので、何か思うところがあっても、その点はどうかご容赦いただけると幸いである。
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