#劇場版おっさんずラブ を初日に3回見て感じたこと(ネタバレ)
※これは8月23日の深夜にふせったーにあげたものを再掲したものです。
■五角関係という最大の罠
「ラブバトルロワイヤル」「五角関係」という言葉に完全に騙された。ああ、そうだ、おっさんずラブはそういうドラマじゃないか。大切なことほど、本質ほど、オモテには出さないのだ。この二人はラブには全く絡んでこない。徹頭徹尾、春田、牧、黒澤という、連続ドラマからおなじみの彼ら3人による恋模様には一切絡んでこないのである。
まず、いわゆる「OL民」による私は、事前に情報を集めていたからこそ、ここで躓いた。
狸穴にとって牧はどこまでも期待をかける部下であり、ジャスティスにとって春田は亡くなった兄を彷彿とさせる、大切にしたい先輩なのだ。この認識を得られたのは1回目の鑑賞が終わってから。この二人の立ち位置を把握しているか否かで、映画全体の感情の流れの理解度が全く変わる。ストーリーが全然違ってくる。
連ドラぶりに「やられた…!」と思った。
「劇場版おっさんずラブ LOVE or DEAD」は「ラブバトルロワイヤル」に偽装した、どこまでも春田と牧が、下手したら連ドラよりもずっと深く、濃く、お互いに向き合う物語だった。
■ジャスティスという存在
そう前置きしておいたところだが、まず志尊淳演じる山田正義の存在が素晴らしすぎるので、彼のことから語りたい。
香港から帰国した春田が出勤途中に偶然出会う彼は、春田と何かと馬が合い、「お兄ちゃんみたい」と慕う。春田と気が合う後輩というポジションは、連ドラ1話の牧を彷彿とさせるので、一見すると春田を狙う新しいライバルかと感じさせる。
だがしかし、ジャスティスの素晴らしさはここでライバルに見せかけているのだけど、実際は春田にとっても、ジャスティスにとっても、そうした「恋」の対象となる相手では全くないという点にあると思う。
この二人は、あくまで「気の合う先輩/後輩」。春田にとってジャスティスとのじゃれ合いは、まさに連ドラ2話で牧との関係の確認に使った「男子校のノリ」にすぎないのである。
連ドラの時、牧と比較される存在は、荒井ちずだった。春田にとってちずは恋愛相手ではなかったけど、春田の性的指向に含まれる存在であることは間違いなかった。だから、個人的には、春田がちずに恋をしていなくても、ちずに対する態度は牧に対するそれとは違って見えた(なんていえばいいのか。色気があるかないか、と言えばいいのかな)。
しかし、映画ではジャスティスという、牧と同性でありながら、「男子校のノリ」の後輩を出したことで、春田にとって牧がいかに特別な存在なのかがより鮮明になったと思う。
つまり、――これが凄いと思ったのだけど――春田の人好きのする態度にも、ジャスティスに対するそれは、あくまで後輩とのじゃれ合いにすぎないのに、牧に対するそれは恋人とのスキンシップそのもので、そこにはちゃんと色気があった。これは、連続ドラマのときとは全然違っていたので、衝撃すら受けた。
■春田の世界はあの日から変わった
そこで、この人の存在を語らずにおっさんずラブを語るわけにはいかない。春田創一。
映画を見て、7話で牧に「結婚してください」とプロポーズしたあの日から、春田の世界は変わったのだと思わずにはいられなかった。牧が好きだと気付いた春田のその先。春田は、私(私たち)が思っていたより、ずっとずっと牧のことが好きだった。
香港に遊びに来た牧に、何のためらいもなく抱き着く。帰国したその夜も、帰ってきた途端に照れる様子もなく抱き着きに行く。その一連の行動で、春田が恋に気付いたことで、二人の関係性が連ドラからはすでに次元が変わったのだとはっきり理解した。
春田にとって、牧は「よく分からないけど必要」「恥ずかしくない」人なんて次元はとっくに超えていた。春田にとって牧は、とっくに春田のものだった。
だから、あのプロポーズの日から、きっと春田の世界は変わったのだ。連ドラでは、武川と牧が手をつないでいたことを目撃したショックを「なんかザワザワする」としか認識できなかった。「武川さんがヨリを戻したいから牧から手を引く」ことを「なんかいやだ」としか理解できなかった。でも、春田にとって狸穴は、最初から嫉妬の相手だった。牧が取られると危機感を募らせる相手だった。「男同士でキスとかありえない」「裏切られた気分」「俺はロリで巨乳が好き」「俺は彼氏なの? 彼女なの?」と自分の性的指向を確認していた春田はいなくなったのだと思った。春田にとって世界は、男と女ではなくて、牧と、牧と自分の仲を邪魔してくる奴(性別は問わない)と、それ以外になったのだと思った。
■牧の夢
春田も変化したけれど、やはりこの映画では牧の変化を見逃すことができないし、牧の変化こそが、この映画を理解するうえで最も大切だとすら思う。
劇場版おっさんずラブのテーマは「夢と家族」だそうだけど、この「夢」という概念をおっさんずラブの世界に持ち込んだことにより、連ドラから一気に世界が広がったように感じた。連ドラが第0章ならば、映画は第1章。もっと言えば、連ドラは序章にすぎず、本編はここから始まっていくような感覚すら抱いた。繰り返しになるけれど、連ドラからは次元が変わった、とここでも感じた。
私は連ドラも映画もおっさんずラブで描きたいことはほぼ一緒だと思っている。映画は爆破シーンや監禁シーンなど、派手で煌びやかな演出もあるものの、おっさんずラブが届けたいものは春田と牧という二人と、それを取り巻く登場人物たちの関係性というどこまでもミクロの世界である。結局、外箱をどんなに華やかな包装紙でくるんでいたとしても、それが本質ではない。
しかし、連ドラでは登場人物たちの「夢」についてほとんど触れられることがなかった。ましてや牧は、就活の時に「自分のやりたいことが分からない。でもHPに載っていた『自分の好きな仕事をやるのではない。自分の仕事を好きになるんだ』という武川さんの言葉に感銘を受けて」天空不動産に入社した過去があるような男である。牧の「仕事の夢」という言葉はOL民ですらピンと来ない人が多いのではないかと思う。
私はこの「夢」という概念は、連ドラに散りばめられた、あらゆる要素を言い換えたもの、もしくは集めて構成しなおしたもの、だと思っている。だから、連ドラと映画はほとんど同じことを言わんとしているのだけど、言葉が変わってしまっているので、一見すると違うものに見えてしまうのではないか。
その意味で私は、牧の夢は、彼が仕事で全ての人たちの影響を受けて生まれたものだと解釈している。
彼はジーニアス7のスタートミーティングで「入社以来の夢でもある、世界中から愛される街づくり、100万人の笑顔が溢れる街づくりを実現したい」だと語ったけれど、おそらく「入社以来の自分の夢」だと“その時の牧が思っている”のであって、入社した時の牧が必ずしも事実その夢を抱いていたわけではないのではないだろうか。
武川に出会い、仕事で自分が求められることの面白さを知り。開発事業部でエースとなり、街づくりという経験を身に着け。現場経験できた第二営業所で春田と出会い、営業は街と人が好きでないと務まらないと語る春田の魅力に惹かれた。そんな牧が、社会人として年次を重ね、本社に戻ることになったときに、自分が得てきた経験と、これまでに自分が憧れてきたもの振り返った時に、そこにあった答えこそが「100万人の笑顔が溢れる街づくり」だったのではないだろうか。
自分が成果を出した街づくりで、営業所で見てきた「街と人の幸せ」を作ることができるのだと知ったら、牧はそれを自分の夢だったのだと、そう認識するのではないだろうか。だからこそ、「今が一番、生きている」と実感できるのかもしれない。
私は夢を語る牧が、牧のこれまでのすべての経験、苦しさが結実した結果のように見えて、胸がいっぱいになった。一方で、営業所で春田にポスティングを教わって、真面目に配り歩いていたあの頃の牧は、もういないのだと切なくもなった。あんなに仲の良い先輩と後輩だった春田と牧。でも、ふたりは違う世界にいってしまった。牧は開発事業へ。春田は営業所へ。ふたりが同じ職場で働くことは、仲の良い先輩と後輩として席を並べることは、おそらくもう二度と無いのだろう。
■春田の夢
春田は牧の夢に嫉妬する一方で、牧は春田の夢を詳しく聞こうとはしない。
私は3回見てもこの部分の感情だけはスッと入ってこなくて、いまだに悩んでいる。でも、今日一緒に鑑賞したフォロワーさんと話していて一番納得したのは、春田と牧が職場の同僚ではなくなったからこそだ、という解釈だった。
連ドラの時のふたりは、付き合っている期間があったものの、その関係性を最も的確に表現するとすれば、おそらく「ルームシェアしている同じ職場の同僚」だったのではないかと思う。
二人を結び付けていたのは、あくまで仕事だった。でも、映画の春田と牧を結び付けるものは、もう仕事ではなくなった。同じ職場でなかったとしても、全然違う夢を持っていたとしても、それでいいのだ。だって、二人は「家族」だから。相手が夢を持っていることを知っていさえすればいいし、その夢を応援できれば、その内容はなんだって良い。だから、牧は春田の夢を聞かないのではないか。どんな夢だって、牧がそれを家族として応援することには変わりないのだから。
■映画の春田と牧
こうしてみると、映画の春田と牧は連ドラの時のふたりとは全く違う。手が触れては焦り、キスしては動揺し、元彼と聞いて衝撃を受け、恋心にすら気付かなかった、あの頃の春田はもういない。
牧は牧で、やはりあのころとは違う。「もう我慢しないんで」と連ドララストで言い切った牧は、春田への欲を隠すことなく出してくる。
恋に気付いた春田と牧は、浮気を疑っても、別れ話をしたりしない。「ジャスティスの方が気が合う」と喧嘩を売る春田だって、「狸穴さんはそんな子供っぽいことは言わない」と売り言葉に買い言葉の牧だって、お互いジャスティスが、狸穴が自分にとって恋愛対象の相手ではないことくらい、当然分かっている。それでも、相手に自分のことを分かって欲しくて、自分のつらさを理解して欲しくて、その一言が相手を傷付けると分かっていても、どうしても、その言葉を吐かずにはいられないのだ。
「結婚ってなに?」とちずに聞いたあの日の春田。「ずっと一緒にいたい」から「結婚してください」とプロポーズした、その答えを春田はもう知っいる。「死んでも牧と一緒にいたい」。
「大事なのは長さより深さ」と武蔵に食い掛ったあの日の牧。でも気付いてしまった、深くなればなるほど、嫌なところも目に付いて、今の関係性が壊れてしまうのが怖くなることに。それでも、「春田じゃなきゃ嫌」なのだ。
そこにあるのは、「恋」なんてとっくに超えた、ちゃんとお互いに向き合った、どこまでも深くて濃い二人の姿だった。
これだけの関係性を作っていける田中圭と林遣都のふたりには脱帽である。ふたりが向かい合ったときの目と目の動き。相手のことを欲しくてたまらないと投げかけるのに、自分からは動けない、駆け引き。一緒にいるのが楽しくて花火が綺麗だね、と隣の顔を見たら、その嬉しそうな笑顔に、握らずにはいられなかった手。
一方で、ある種のファンタジー、優しい世界だった連ドラにはなかった現実にも向かい合う。
「男同士は法律では結婚できない」「子供だって好きだから」…とんでもない作品だな、と思う。
おそらく、連ドラの時の田中圭と林遣都には、この今の二人は演じられなかったと思う。連ドラで出会い、あれだけのドラマをやりきって、そしてその後も公私ともに信頼関係を深めてきたからこそ、ここまで深くて濃い関係性が作り出せるのだろう。逆に言えば、今のふたりには、もう連ドラのときのような、あの初々しく甘酸っぱい関係性はできないのかもしれない。
だからこそ、映画の選んだ結末が「爆発」なんだな、と思った。
おそらく、どんなシチュエーションにおいても、あのふたりは、その状況における春田と牧の関係性を作り出せることだろうと思う。花火大会そのものが嬉しいのではなく、花火を見て喜ぶ顔が嬉しい。これができてしまっているのを見たときに、何が起きても、どこにいても、春田と牧は互いに向き合い、変わらないのだと思った。
だったら、ほのぼのとした日常ではなく、「爆発」という非日常下に置き、極限状態で二人の愛を確認させたのも分かる。伝えたいのは華やかな包装紙に包まれた外箱ではなく、中身。興行収入という一般人への訴求の観点から考えれば、尚更だろう。
ここまで二人の関係を深めてしまうと、確かに「完結」というのも分かる。この二人の前では結婚式も指輪交換も、形式以上の意味は何らないだろう。そういうのはもうとっくに超えてしまった。物語はいくらでも作れる。あらゆる状況下に、二人を置けば。
でも、死んでも一緒にいたいとまで願ってしまった二人の関係性を、これ以上深めていくことができるのか。これが非常に難しい。
でも、だからこそ、その先の二人をいつまでも見ていきたい気がする。
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