#熱帯樹 ~愛されたい人たち。愛とは。家族とは。~

はじめに

昨年の春、このブログにも何度も記事を上げたように、私はおっさんずラブの牧凌太に、大きく感情移入をしてしまった。

ドラマとは、映画とは――お芝居とは、その本質は、虚構の世界にもかかわらず、そこにあたかも本物の感情を見出すことなのだと、そしてそれまで知らなかった気持ちを知ることなのだとすら思わされた。それが、おっさんずラブの牧凌太であり、林遣都であった。

彼の感情が目の前で揺れ動くさまを、同じ空間で見ることができたらどんなに良いだろう、そう思わないはずがなかった。林遣都が、役として生き、役として感情が昂っているところを見たいと強く思った。正直、役者さんに対してこんな感情を抱いたのは初めてである。

だから、初めてプレガイドに何百回も電話をかけた。あらゆる先行に申し込み、果てにはキャンセル待ちまでした。そこまでしてでも、どうしても、彼のお芝居をこの目で見たいと思ってしまったのである。

そして、有難いことに、私は観劇の機会を3回いただいた。


熱帯樹という舞台~トラムにて~

初めての観劇は2月24日のシアタートラム。「濃密な会話劇」という前評判のとおり、物語は会話を中心として進んでいく舞台だと思った。シンプルな舞台装置の上で、僅か5人が繰り広げる会話劇。派手な演出もなければ動きもない。互いの感情、見えないしぐさ、閉鎖的な家族の外側の世界はすべて「会話」で描かれていく。

観劇しているうえでの視点は、当然のように話し手に行く。

その結果、当初感じたことは、女性が強い舞台であるということである。

例えば――これはいずれも、私が当初感じた印象であるが――、病床に伏し、母に対し女としての嫉妬を見せながら、兄を母親殺しへと駆り立てる郁子。母親でありながらも、女として生きる律子。そんな彼らに、傍観者として接し続ける信子。

ダイアローグの多い彼女たちの言葉に飲まれていくような、そんな錯覚を覚える舞台だった。特に、この作品は三島が半世紀以上も前に戯曲として書き上げたものである。その美しい言葉ばかりが先行し、そこに感情が乗り切っていないような、そんな印象すら受けた。

そのなかで林遣都演じる勇は、ひときわ語りが少なく、ゆえに初見の際はなかなか彼に視点がいかない。妹と母の間で揺れ動く勇の姿は、優柔不断で弱い。それをあの美しい林遣都が演じるのだから、ひと際儚い美青年としてうつるのだが、正直なところ、私は勇にカタルシスを感じきれなかった。

彼が母に欲情していることは分かる。妹との間で気持ちが揺れ動いていることも理解できる。その感情に押しつぶされぬよう、自分自身を確かめるかのように、まるで助けを求めるかのように妹に口づけする姿はとても美しい。なんとも耽美的であり、官能的ですらある。

でも、なんと言ったらいいのだろう。私は果たしてこの舞台が何を伝えたいのかがはっきり分からなくて大変もやもやしたのである。

この作品の根底にあるものが、「愛」ということは分かった。でもそれがどういう「愛」なのか。その核心をつかみ切れなかったし、だから、自分の感想をまとめきれなかった。

言葉の濁流に飲み込まれて、その本質にまでたどり着くことができず、大変悔しい思いをしたというのが、トラムでの正直な感想だった。


愛されたい人たちの物語

ありがたいことにその後も観劇の機会に恵まれ、東海市芸術劇場にて3月16日のソワレ、そして3月17日の千穐楽と観劇することができた。

この2回は大変素晴らしかった。一度の観劇を経て、この作品に対する私の理解が進んだことも大きかったと思うが、とにかく、会話が単なる会話で終わらなかった。演者たちから発せられる言葉が、単にその場に留まる言葉ではなくなり、時には感情が乗り、時にはその場にいない他の人物を浮き上がらせた。濁流のように押し寄せていた言葉が、しっかりとした流れを作っているようにすら感じたのである。

そのことによって、トラムに比べても作品が立体的になり、私はようやく5人の感情の一端に、ひいてはこの作品の核心に、徐々に近づけていけるように思えた。


この作品は、確かに「愛」の物語なのであるが、もっといえば「愛されたい」人たちの物語なのだと思った。

その「愛されたい」はそれぞれ少しずつ方向性が違っているのであるが、仮に勇を演じる林遣都が主演であるということを捉えると、その最大のテーマは、普遍的で、唯一の、「母なる愛」を求める人たちを描く作品であると思った。


私は「母性愛」という概念を懐疑的に思っているけれど、それでもやはりこの舞台においてはその概念が重要で、5人のうち、恵三郎、律子、勇、郁子からなる家族は特にその唯一絶対の、自らに対する「母なる愛」を求めている人たちだと思った。


まずは定義しておこう。ここで言う「母なる愛」というのは、「ありのままの、生まれたままの、飾らない、そのまま自分を、ただまっすぐ愛して欲しい」という欲求のことである。

これは恋愛であったり友情であったりという「社会的な愛」とは少し違うと思う。もっと本能的というか、もっとプリミティブで、剥き出しで、とても他人には受け止めきれないような、そういう類のものだと思う(でも得てして、人は無意識に、それを恋人や友人に求めてしまう。それゆえに、「社会的な愛」は壊れてしまうのだ……という気がしている。個人的に。)。

この欲求は普遍的なもので、この平成が終わるという現代においても十分に通用するテーマである。むしろ、承認欲求が肥大化した今、あらためて新鮮に解釈することができるテーマのようにも感じる。


この舞台に出てくる4人の家族は、家族でありながら、その「母なる愛」に飢えている。

本来であれば、それを与え合うはずの者たちが、ちょっとしたボタンの掛け違いで互いに与え得ることができず、追い詰められている。


そして特にそれが顕著なのが、勇なのである。


勇という人物像

3回の観劇において最も心情の理解に苦しんだのが勇だった。林遣都が主演の舞台で、林遣都を観に行っているはずなのに、それでもなお勇の心情が分からないことはもどかしく、そして何よりも申し訳なかった。自分の理解力の無さを悔やんだ。

でも、3回見てようやく、なぜこんなにも、林遣都主演の舞台で林遣都を観に行っているはずなのに(しつこい)、勇の感情が分かりにくいのか、今ひとつ彼にカタルシスを感じられないのかをようやく理解した。

それは、繰り返しになってしまうけれど、勇のセリフが極端に少なく、それゆえに、彼に意識がいきづらいから、である。


この舞台は、台詞が多い。シンプルな舞台装置の上で進んでいく会話劇ゆえに、会話の情報量が非常に多い。そして、その言葉が美しいがために、どうしても、観客側はそこに意識が引っ張られてしまう。その台詞がメインのようにも見えなくはない。

でも、少なくとも小川絵梨子さんが目指したのは、そうではないのではないか、と思った。


その膨大なダイアローグの中で、その言葉を受けている人が、果たして、どのような気持ちを感じ、行動に移していくのか。三島由紀夫の紡いだ言葉――戯曲として「目に見えるもの」――で、勇は、郁子は、律子は、恵三郎は、いったい何を感じるのか――戯曲として「見えないもの」、解釈の余地が多分にあるもの――を浮かび上がらせようとする、そんな舞台なのではないか。

あれだけ大量の台詞からなる、「動」の作品のように見えて、実はその言葉を受けた人物が、どのような感情の動きをするのか。三島の言葉の裏側に、彼らは何を感じていたのかを見せようとする「静」の、「受け」の作品であるのだと。

だからこそ、台詞が一番少ない勇が主役で、うつろいゆく感情の表出が素晴らしい林遣都が選ばれたのではないか。そう感じずにいられなかった。


とはいえ、そうした解釈ができるようになったのは、その前提として、やはり3回の観劇機会に恵まれたということは間違いなくあると思う。物語の構成や結末、場面場面における台詞をある程度把握できるようになったからこそ、その台詞に引っ張られることなく、意識的に勇を観ることができたのである。これを1回の観劇で行うのはかなり難しいと思った。

(また、原作である三島の戯曲集は絶版なのだから、ますます解釈に困難を極める作品であることは間違いない。)


だから、せっかくなので、一番理解に苦しんだ勇を中心に、この舞台を振り返ってみようと思う。


母親の愛を求め続ける純粋無垢な美青年

勇を表現する言葉として「未熟さ」「弱さ」「優柔不断」というのを比較的よく見かけるし、私もその解釈はおおむね賛同するのだけど、彼を見ていて一番に思ったことは、普遍的な、ありのままの自分を愛してくれる、母の愛を求めている人なのだと思った。どんなにわがままを言っても、父親に乱暴をしても、学校をやめるようなことがあっても、諦めたり、見放すことなく、慈しみ愛してくれる、母なる存在。


勇は幼少期から母の愛を感じることができなかった。でも、いや、だからこそ、彼は母親からの愛を渇望する。意識、無意識か分からない。求める愛が手に入らない。その手に入れ方も分からない。それゆえに、彼は、本能的に、母に対して――母として手に入れることができないから、女として欲情し、愛を求めるのだと思う。

しかし、彼はそんな自分自身を正面から受け止めることができない。恵三郎が言うように「自分の心をごまかしている」。だからこそ、妹の空想に付き合い、心の底では欲する母が、母としてではなく、女として生きることに嫌悪感を抱き、悪者に仕立てる。

でも、その母も、本当はいつまでも「可愛い小娘」でいることを望んでいるのではない。

勇はそれを知り、ひどく動揺する。自らが母の愛を手に入れることができない、その原因を、勇は、律子がいつまで経っても父である恵三郎に女として生き、色目を使い、そうやって好きな着物を着飾り、美しく化粧をし、美しくあることのために、その財産を使わせてきたからだと思っていたのだろう。

自分が欲するものも母で、でも、それを手に入れられない原因も母にある。だからこそ、郁子の「母親殺し」という妄想に、彼も付き合うことができたはずだ。

しかし実際には、律子は母でいたかった。母になりたかった。でも、恵三郎から「可愛い小娘」でいることを求められていたからこそ、「母親にはなれなかった」。

母の愛を手に入れられない原因は、律子にあるのではなく、父である恵三郎にあるのだと知り、律子の望む「父親殺し」に傾いていく――


以上は、律子とが勇に対し、「家族」の外側で真実を告げていく庭の場面でそのほとんどが語られている。このシーンでは、勇の台詞は少なく、ほぼ律子の言葉を受けていくだけであるが、律子が語る父親像に、勇の中での認識に変化が生まれ、感情がうつろいゆく。

それまで勇自らが見えていた母と父の姿と、自分の愛の方向性から、深く考えることなく、母を悪者に仕立てていたのに、母の言葉で、その矛先を父に変える。

この純粋無垢さは、確かに人として「未熟」であり、それゆえの危うさがある。母の前での勇は、いつまで経っても子供なのだ。


この庭のシーンでの林遣都の表現は素晴らしい。律子の前での緊張した面持ち。律子の手が自らの頬に触れようとしたときの、過度な拒否反応。自らの求めていた愛が手に入らない理由が父、恵三郎だと理解していく過程の動揺。言葉数は少ないけれど、表情、目の動き、強張った体つき、声の大きさ。律子に対する反応がその変化を表しているのである。


父に対する男としての嫉妬

しかし、私はどうしても勇が「未熟さ」「弱さ」「優柔不断」な美しい美青年というだけではやや違和感があった。確かにその解釈には同意するのだけど、あの必要以上に張る声から、父に対する感情の昂ぶりから、それだけではない何かを感じたのもまた事実だ。


その答えは、父と対立するときの勇を見て、ようやく分かった。

お互いの身体を押し倒し、恵三郎が声を張り上げる、「父親殺し」を画策し、それを郁子に吹き込み、さらには律子に唆されたと嘘をついた勇――と恵三郎は思っている、そこにはおそらく、若く美しい勇に対する男としての嫉妬も多分にある――に迫る場面。

勇は、父を張り倒し、「この家には家族はなくて、男と女がまつわり合っている」と声を張り上げる(まさに、この物語の真理であると思う。)。

あの場面における勇は、とても「未熟さ」「弱さ」「優柔不断」とは違う表情が見えると思う。

その理由は、3回目の観劇で分かった。心臓に持病があるという恵三郎が、倒れ、苦しそうにもがいているとき。律子が「もう少しだわ」と声を上げるそのとき。勇は、笑っているのである。男として――あるいは律子を、もしかしたら郁子をめぐり――恵三郎に勝ったことを、彼は静かに、小さく、でも確実に悦び笑っているのである。

その勇の笑みを見たときに、得も言われぬ寒気が背中に走った。勇は決して「未熟」で「弱くて」「純粋無垢」な美青年なのではない。この家族に閉じ込められて、男になりきれず、「そのような性質でいるしかない」のだ。そういう勇を、律子が、郁子が、求め、作っているのだ。なんて闇が深いのだ。ぞっとせずにはいられなかった。


(いやでも、あそこで、父親が死にそうになっているのを見て、仄暗い笑みを見せられる。単なる「純粋無垢」な美青年ではすまされない、そこまでに追い詰められた勇の暴力性、人間の闇深さを叩きつけてくるの、まさに林遣都の真骨頂ですね……と思ったのはここだけの話です。)


郁子という合わせ鏡のような存在

そうした親子関係が根底にあって、勇にとって郁子というのはどのような存在なのだろうか、と考えるとき、あの家族にあって、唯一彼に存在意義を与えてくれたのが郁子ではないかと思う。

郁子は勇に「兄」という存在意義、居場所を与えてくれる存在だったのだと思う。男として頼ってくれる可愛い妹。母なる愛を得られなかった勇にとって、人生における自分の存在意義はどうしても曖昧になりがちで、だからこそその確固たる居場所は、居心地が良かったのだろうと思う。勇は律子の「息子」にはなれなくても、郁子の「兄」でいられた。

両親の前では硬直した姿の多い勇が、郁子の前では笑みを浮かべ、きらきらと感情豊かになるのがとても印象的だった。


郁子と勇の関係性というのは難しいし、特に郁子の存在はこの舞台において重要で、勇との関係だけではとても書ききれないけれど、私はふたりはまるで合わせ鏡のような存在だと思う。

郁子の病気というのは、勇が母の愛を求めるがあまり、母に対して女として欲情してしまうのによく似ている。郁子は「(病気に)なりたくてなったんだわ」と言うけれど、それはあながち嘘ではなくて、彼女が家族から愛される手段が、それしかなかったのではないか。

郁子は家族の「心」が欲しかった。特に父親の「心」が。彼女のことを想ってくれる「心」が欲しかったのだ。だから彼女は病気になった。

でも、「できれば病気がこんなにどんどん進んでゆくのじゃなかったら良かった」。

家族の「心」が欲しいから、自分のことを想って欲しいから、そのための手段としての病気は受け止めるけれど、本当は「生きていたい」という強さ、したたかさ、彼女の生への執念が感じられる。

しかし、父親は最後まで郁子に「心」をくれはしなかった。「心」を人にやらない、「心は人を遠ざけるから微笑を選ぶべきだ」と考える恵三郎は、律子を「可愛い小娘」としか見ない。母の愛を手に入れられない勇は、律子と郁子を女として見ることしかできず、心が揺れ動く。だから郁子は、「心」ではなく、最後に勇の身体を欲しがった。


でも、そんな合わせ鏡のようなふたりがなぜ最後に心中を選ぶのか、特に郁子から「永遠に離れずに暮らしましょうね」と言われ、間違いなく戸惑っていた勇が、なぜ心中を選ぶのか、その勇の心境の変化だけはどうしても自分の中に落ちてこなかった。3回見てもこればっかりは理解できず、三島由紀夫の戯曲集を読んでも、どうして戸惑いが前向きな気持ちに変わっていくのかが分からない。


だから、これは私の空想であり、ある意味妄想になってしまうのだけど――私はふたりは合わせ鏡のような存在だったのではないかと思う。

病気になることで(もちろん、なりたくてなったわけではないのだろうけど、それでもそういう面があることは否めないと思うのだ)、両親の心を欲した郁子と、母性愛を求め続けた勇。遠いようで近い、合わせ鏡のような存在。

お互いの言葉を、まるで自分の言葉として受け止めていくうちに、共感し昂ぶり止められなくなってしまった。郁子が勇に居場所を与えていたがゆえに、勇は郁子の言葉や感情を否定しきれなかったし、それが自分の感情を脅かしていくのを止められなかったのではないか。

郁子の気持ちの昂ぶりと勇の気持ちは徐々に溶け合って混然として、それが果たして自分の感情なのか、それとも相手の感情なのか、分からなくなってしまった。だから勇はあんなに顔を輝かせる。それまでの戸惑いなんて、まるで嘘みたいに――そんな解釈をしている。


(役者さんに、役を演じた裏側の解釈や考え方を聴くのは反則かもしれないが――もし、林遣都にこの舞台のことをひとつ尋ねることができるとしたら、私はこの場面での勇の心の移り変わりを、彼はどう捉えていたのか、解釈していたのかを聴いてみたい。)


おわりに~家族というもの~

以上が、勇を中心とした「熱帯樹」の感想である。最後に、この舞台から感じた「家族というもの」に触れて、終わることとしたい。

この舞台を見て、三島由紀夫の凄まじさは言葉に嘘がないことだと思った。5人が語る言葉は全て核心を付いており、あの膨大な情報量には一切の無駄がない。

冒頭にこの舞台のことを、“三島由紀夫の紡いだ言葉――戯曲として「目に見えるもの」――で、勇は、郁子は、律子は、恵三郎は、いったい何を感じるのか――戯曲として「見えないもの」、解釈の余地が多分にあるもの――を浮かび上がらせようとする”と表現したが、「見えないもの」を浮かび上がらせた結果、その性質を三島は他の場面できちんと言葉にして的確に表現していることが多いとも感じた。「見えないもの」を見せようとした結果、それが既に言葉として表現されている。「人」は「人」の間に「私」を作る。そういう、人間の本質、人間関係の本質のようなものを垣間見たような気がして、三島由紀夫の才能の片鱗を感じた。

一方で、核心をつく言葉の数々だが、それがそれぞれ微妙にずれているとも、同時に思った。勇が語る律子、郁子。律子が語る勇、郁子。恵三郎が語る律子、勇。それぞれが語る互いのことが、どこか異なっているのである。そこがいかにも家族だと思う。一番近い存在だからこそ、互いのことを一番分かっているようで、実は「私」の思う(あるいは「私」が理想とする)彼/彼女の姿を語っているだけで、その本質を分かっていない。


でも家族だからこそ、私たちは「ありのままの自分を分かって欲しい」と願い、「愛して欲しい」と貪欲な欲求を押し付け合ってしまうのだろう。

それぞれが普遍的な愛を求め、それが手に入らない結果の悲劇なのだ。

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