#チャイメリカ ~真実とは、正義とは果たして何か~
サメと泳ぐでの田中圭の感情の起伏は大変素晴らしかった。
彼の気持ちが動いていくさまを彼と同じ空間で目の当たりにできることの魅力を思い知った。それゆえに、チャイメリカの観劇は迷う余地などなかった。もう一度、彼の感情が移ろいゆくさまをこの目で見られるのならば、行かないわけにはいかなかった。
しかし、いざ観劇し終わってみると、チャイメリカというこの作品は、非常に大きなテーマが内包された作品で、役者の芝居、感情の動きに着目するのはもちろんのこと、それ以上にそのテーマそのものについて、考えずにはいられなかった。
中国とアメリカを行き来するダイナミックな作り、天安門事件というミステリアスな歴史的事件を主題として取り上げた点、アメリカの政治的背景や両国の持つ主義の違いなど、多種多様な素材がこれでもかと盛り込まれた脚本。しかしきちんと調理されて、ひとつの物語に収まっている点はお見事としか言えない。
扱う素材が多いので、様々な視点から切り取り、解釈することができる舞台だと思う。しかし、私がこの舞台から一番に感じたことは「正義とは何か、真実とは何か」という壮大な問いと、作者/観客という「まなざし」の存在に対する「皮肉」であった。
語りたいことが多すぎるけれど、この点に絞って、チャイメリカの感想を残しておきたいと思う。
本作は、天安門事件というミステリアスな歴史的事件を主題として持ってきている。
しかし、決してその謎を紐解くような作りではなく、世界中のどこにでもある、普遍的な問いを描いている。それは「真実とは何か、正義とは何か」ということである。
2013年ニューヨークマンハッタンのギャラリーでの写真展、
1989年の天安門事件に居合わせたアメリカ人ジョー・スコフィールドがとらえた一枚の写真が
人々の目を引いている。―――1枚の写真、それはアメリカ人によって撮影されたもの
白いシャツを着て、買い物袋を二つ下げた中国人の男が
隊列を組む戦車の前に立っている
それはヒロイズムの写真である
それは抗議の写真である
それはある国を別のある国がとらえた写真である
パンフレットや公式HPをはじめ、本作のあらすじはおおむねこのような記載から始まる。
しかし、物語を追っていくと、このあらすじこそ最大のミスリードであることがよく分かる。
一見すると何気ない説明文のように見える。中立的で事実を淡々と並べただけの文章に見える。
しかしこの短いキャプションにアメリカという国から見た中国に対する解釈が込められている。
アメリカの者たちは、戦車の前に立つ男をヒーローに仕立て上げた。
統制を敷き、自由を奪い、民衆を虐殺する。残忍極まりない政府に孤高に立ち向かう、ヒーローの姿。
そして、そんな彼に興味を持った。
ある者は、買い物袋を下げている。一体何を買ったのだろうか、と。またある者は、朝ごはんには何を食べたのだろうか、と。
劇中で、ジョーの同僚であるメルは語る。人々が関心を持つのはそうしてディテールであるのだと。
それに対し、「ヒロイズムの写真」であり「抗議の写真」である、そこに映るのは「ヒーロー」だとするジョーは釈然としない。
彼を撮影したジョーは、また別の興味を持つ。「戦車男」は今もまだ生きているのではないか。子どもたちすらiPhoneを持ち、ショッキングな写真は日常に蔓延る。この現代社会では、「戦車男」の頃のように、残酷さを伝える写真で人々に正義を伝えることはできない。感動を呼び起こす写真こそ、人々に正義を伝えられるのではないか。
一方で、中国人のヂャン・リンは、写真にうつる男の名前を知っているという。
あるいは、中国からアメリカにわたり不法滞在を続ける夫婦は写真を見て自分のこれは自分の弟であり、英雄だと話す。
「戦車男」を探すジョーは喜ぶも、夫婦は戦車の前に立つ男ではなく、戦車を指さす。
この戦車に乗る男こそ自分の弟であり、政府の命令に背き男を助けた、英雄なのだと。
この映画では「戦車男の写真」が物語の鍵となって、これをめぐりアメリカと中国の立場の違い(民主主義・資本主義/社会主義、民主主義・資本主義を広げたいアメリカ/共産党政権が統制をかける中国)、その社会で生きる人々の「真実」と「正義」が衝突する。
一枚の写真の裏にある人々の思い、また、そこに映る一人の男の後ろにいる、何万人もの人々の正義が浮き彫りになっていく。
写真にしろ映画にしろ――そして何より演劇もそのひとつだと思うけれど――風景は切り取られ、「シーン」として我々の手におさめられた瞬間に、真実から遠のいてしまうものだと思う。
そこにはカメラマンであったり、監督であったりという、何らかの意図を持ちその「シーン」を切り取った人間が必ずいて、一方で、その「シーン」を見る観客も必要となる。
切り取ることも見ることも、何のフィルターも通さずに行うことはできない。育ってきた環境。受けた教育。イデオロギー。欲求。
カメラマンにはその写真を撮影した時の解釈や伝えたい意図があり、観客にはまたカメラマンとは違った解釈や意図がある。そうして切り取られた「シーン」には「真実」とは別の意味が付与され、新たな「真実」が作られていく。
これは天安門事件とこの「戦車男の写真」に限ったことではなく、普遍的なことである。
この作品における「戦車男の写真」は、一枚の写真に人々が与える意味を通して、両国の持つ主義や置かれた状況の違いを映し出すとともに、それによってさまざまな人たちの人生が狂わされていく中で、果たして「正義」とは何か、「正義」がいかに曖昧で危ういものかを説いている。
その最大の仕掛けは、言うまでもなくジョーの友人であるヂャン・リンこそが、ジョーが探し続けていた「戦車男」その人であったという種明かしであろう。
一枚の写真にヒロイズム=「正義」を求めるものの、その実、ジョーは友人すら救うことができなかった。ジョーは23年前のヒーローを求めるあまり、友人からのSOSの連絡に気が付くことなく、返事すらしない。「正義」を強く求めるのに、どこか傍観者から抜け出せず、立ち位置の分からない矛盾した存在である。
事件の起きた現場にいたのにも関わらず、彼はその瞬間の「真実」は何も見えていなかった。彼の撮ったその写真は、彼自身が「戦車男」に、あるいは社会に求める「正義」を人々に伝える「手段」にしかなり得なかった。そこに「真実」はなかった。
そして、その結果、ヂャンの人生は狂わされていく。「正義」を捉えた主人公の彼は、引きこもりになった。彼自身の抱える「正義」「真実」を諦めることも、兄のように消化することも、合理化することもできず、彼はあの日の天安門の記憶から動けなくなった。彼は「正義」に人生を狂わされた。
少し話題がそれてしまうが――私がこの作品で一番衝撃を受けたことは、ヂャンと戦車男がつながり、点と点が結び付いていくという物語の作りはもちろんなのだが、それ以上に「戦車男」を「買い物袋を下げている」と表現したことである。これこそが最大のミスリードであるし、この物語の本質を一言で物語っている、非常に巧みな言葉だと思う。
実は、それが買い物袋などではなく、ヂャンの妻であるリウ・リの遺品を詰めた袋であったことがラストに明かされるのだが、大きく膨らんだ2つの袋を見て「買い物袋」であると思い込んでしまう。
そこにアメリカという国が正義を振りかざしている一方で傍観者にしかなり得ないのだということ、資本主義、無意識ゆえに残酷な彼らのまなざしが象徴されているように感じた。
話を戻そう。
ある者が信じる「正義」が、別の者にとっては「正義」でも「真実」でも何でもない。
私たちは考えずにはいられない。グローバルな社会での、多様な価値観、主義主張が混在するこの世界での「正義」は何か、「真実」とは何であるのかを。
でも、やはり思ってしまうのは「ジャーナリズム」の限界のような気もしてならない。
ジョーもカメラマンとしてではなく、一人の友人としてヂャンに向き合っていれば、そこに「ヒーロー」はいなかったかもしれないが、彼を救うことはできたのかもしれない。
しかし、こうした「正義とは何か」「真実とは何か」と考えさせられるこの作品もまた、「戦車男の写真」そのものである、というのがなんとも皮肉である。
アメリカの視点では見えなかった「真実」があることをほのめかす一方で、そうした解釈を天安門事件をはじめとした現実の事件に与えるこの作品そのものが、また作者の――あるいは演出家の――意図、彼らの求める「正義」を超えることはできない。「西側諸国から見た中国」という解釈を抜けきらない点は、「戦車男の写真」もこの作品も同じであり、そこに「正義」や「真実」を求める点はジョーも我々も同じ立場に存在している。
この作品は、私たちに演劇の世界を超えた疑問を投げかけてくる。
結局、「戦車男の写真」を乗り越えることはできないのか。
すなわち、自分の中に無意識に潜む主義主張を超え、その先にある「正義」に、あるいは「真実」にたどり着くことができるのか、という壮大な問いそのものなのである。
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