#おっさんずラブ の魅力~SNS「武蔵の部屋」が私たちに見せるもの~
ある日、そのアカウントは「炎上」した。
私がおっさんずラブというドラマを強く意識するようになった、つまり「沼に落ちた」のは6話の放送終了後なので、いわゆる「OL民」と呼ばれるドラマのファンのなかでは遅い方だと思う。
「沼落ち」する前から、このドラマがツイッターをはじめとしたSNS上で盛り上がっていることは、遠巻きに感じていたけれど、当時私が属していたコミュニティまで、明確な感想は流れてこなかった(それでも、土曜の夜12時頃になると、そのまったく関係ないタイムラインに「牧春」の文字が並んだものだ。このドラマがいかにSNS上で盛り上がっていたのかよく分かる。)。
そんな私が、このドラマの凄さ――凄まじさ、と言ったほうがいいかもしれない――を思い知らされたのは、6話が終わった後のインスタグラム「武蔵の部屋」である。
6話のラスト、牧が春田に「春田さんなんて好きじゃない」と絞り出すように別れを切り出し、春田が引き留めることも出来ず、涙があふれ出すあの場面のあと……我々視聴者は衝撃的なシーンを目の当たりにする。
その1年後、なんと春田は他でもない黒澤と「同棲」しているのである。
(しかも「同居」ではない。「同棲」というお付き合いを匂わせる言葉だ。
2話のキャットファイトシーンでは、「ルームシェア」と明確に否定した春田の口からそれが出てくるのである。)
「一体今のはなんだ!?」とおそらくテレビの前で全国の視聴者たちが戦慄した直後、「武蔵の部屋」はとんでもない投稿を行った。
春田と牧の別れを悲しみ、1年後の「同棲」という展開に衝撃を受けていた視聴者に対し、あたかも黒澤武蔵が“はるたん”との同棲を報告するような投稿を行ったのである。
あれは、夢落ちでも冗談ではなく、まさしく事実なのであると、混乱に陥った我々に民に辛辣なまでに突きつけてきたのだ。まさに、文字通り「火に油を注ぐ」行為に他ならなかった。
案の定、この投稿は、「炎上」ーー視聴者からの感情的なコメントがまたたく間に寄せられることになる。
「部長が幸せなのはいいけど、牧くんと幸せになって欲しかった。」「牧くんはどうなるの?」といった、まるでその投稿の先に、本物の黒澤武蔵がいるようなコメントが続く。
更新を押すたびに増えていくコメント、いいね!の数。
これらを眺めながら、正直、私は、なんて面白いのだろう! と思った。
なんて感情移入させるのがうまいドラマなのだろう! と。
ドラマの中の出来事だと分かっているけれど、それでも私たちは、この胸のうちの激情をどこかに吐き出さずにはいられなかったのだ。
そして、それを受け止め、さらに増幅させる役割を果たしたのが、この「武蔵の部屋」だった。
ドラマの“外側”で空白の1年間を埋めていく
それから、最終話放送までの1週間。「武蔵の部屋」の投稿は非常に面白い。
それまでの、ドラマの劇中でのオフショットらしき写真を中心としたものから、ドラマには出てきていない、あたかも「その日の“はるたん”」を黒澤武蔵が撮影したような、より主観的な、ドラマの本筋に関わるものに変わってきたのである。
物語自体は、もちろんドラマの放送終了後から何ら進展はない。しかし、あたかもドラマでは描かれなかった空白の1年間と、その間の黒澤武蔵と“はるたん”の関係性に進展があったことを仄めかす投稿に、私たち視聴者は、ドラマが放送されないその時間も、ドラマに感情移入してやきもきさせられたのである。
例えば、私が面白いと感じたのは、この投稿。
私はこの投稿を、ある日、外出先で見かけた。
なんとなく手持ち無沙汰で、なんとなく癖でインスタグラムを開いて、なんとなくタイムラインを眺めていく。友人の投稿、好きな芸能人が投稿したランチの写真……そこに現れた「今朝のはるたん」。
ドラマの外で、動画ではなくSNSで、登場人物たちのキャラクター性が膨らんでいく。まるで、現実に”はるたん”がいるかのように。
「#蝶子に愚痴メールを送ったら」「#今すぐそのアプリを始めて持ち前の経済力で課金しなさい」「#と言われました」。
この一連のタグでは、6話で黒澤が元妻の蝶子と“はるたん”を「必ずゲット」するために、「作戦を立てる」シーンで出てくる、蝶子が押す「黒澤のストロングポイント」のひとつだった、「経済力」が思わぬ形で回収されていた(6話本編でも「家庭的」「情熱」「大人の色気」などを実践していた黒澤だが、この「経済力」には特に触れていなかったので、まさに伏線回収である。)。
だからこそ、私たち視聴者は、そうやって言う蝶子の姿をありありと想像できるし、それを素直に受け止める黒澤も、また何よりスマホゲームで徹夜してしまう春田の姿も、リアリティをもって受け止めることができるのである。
その日、その投稿を見る瞬間まで、私はおそらくこのドラマののことはまったく考えていなかった。
でも、それを見た途端に、ふと考えてしまう。はるたんってばアプリに課金までしちゃうの。いやいや蝶子さん、経済力ってそういうこと!?
一人称の投稿には、マスに向けられているはずのものでも、自分に対して語りかけられているかのような親近感を感じさせる。
例えば、その語り口「だお」は、ドラマの中の黒澤武蔵のネットにおける口癖と連動していて、吉田鋼太郎の存在なしに、キャラクターを成立させてしまう。
あるいは、このドラマの公式アカウントにおける、「はるたん」こと田中圭が掲載された投稿にのみ「いいね!」を押すアナログさに、私たちは黒澤武蔵のキャラクターをより身近に感じてしまう。
まるで、ドラマの本編を超えたところで、キャラクターが生きているかのように。
いかにドラマに没入させるか
現代は、あらゆる娯楽に溢れている。そして、ありとあらゆる娯楽は、私たちの有限の時間をそれぞれ奪い合っている。インターネットはあらゆるサービスと私たちの距離を限りなくゼロにした。その結果、娯楽による時間の奪い合いは、より激化したものとなっている。
その中で、テレビドラマは、特定の時間にテレビの前に座っていなければならない、という点で、大変不利な状況を強いられていた。
自ら娯楽を選択する時代に、視聴者を特定の時間に拘束する。だからこそ視聴率は低迷していたし、ツイッターアカウントを開設し、TVerなるものを作って……そうやって、テレビドラマはネットにとられてしまった視聴者たちに届くような宣伝を凝らし、特定の時間に縛られないメディアのあり方を考えてきたはずである。
それが、この「武蔵の部屋」はどうだろう。
私たちの「ドラマを見ない時間」、つまりテレビ局側にとっては視聴者の「オフ」の時間に、それも特に“なんとなく”のスキマ時間において、「自ら娯楽を選択した結果」として「ドラマへの没入感を持続させた」という点で、これ以上ない成果を残しているのではないかと思う。
先日、ザテレビジョンのドラマアカデミー賞が発表になり、この「武蔵の部屋」のアカウントが特別賞を受賞した。その評価には、次のように書いてある。
「遊び心満載の裏アカが人気 黒澤武蔵部長が春田の隠し撮りをアップする裏アカウントが、語尾に「だお」を付ける愛嬌たっぷりの投稿で人気に。フォロワー数が増え、第6話放送後は部長に抗議するコメントも殺到したほどだった。」
まさに書いてあるとおりだけど、私が何よりも重要だと思うのは「遊び心満載」のところではなく、「第6話放送後は部長に抗議するコメントも殺到」という点である。
6話がいかに視聴者に感情移入させる作りになっているのか、その議論は他に譲るとして、そこで動かした感情の捌け口に、一人称のSNSアカウントを持ってくる、というやり方は大変新しいものではないかと思う。
ドラマと一口にいっても、そのテーマは様々であるが、視聴者の感情を揺さぶることは決して珍しいことではない。むしろ、「泣ける」とうたうものなど、物語の目的自体が「感動」つまり感情を揺さぶるものはたくさんある。
しかし、これまで、その動かした感情を自ら主体的に回収することはなかなかできなかったのではないだろうか。
これは、ドラマ、ひいては従来からのテレビというメディアのビジネスモデルも大きく影響していると思うけど、要するにいかにリアルタイムで多くの視聴者にその番組を見てもらうか、つまり広告を目にしてもらうか、というのが重要となる。そのために、視聴者にとって魅力的な情報で巧みに興味関心を引き寄せる。例えば、「泣けるドラマ」というように。
「見たい」と思ってもらえる期待を抱かせることが重要なのだ。
もちろん、次を見てもらうために、その期待に応え満足させることも必要だ。しかし、感情を動かし「見てもらう」ことが最たる目的なのだから、「感動した」という感想を抱いてさえくれれば、それで終わり。ツイッターのハッシュタグで周りの人たちにも宣伝してもらえればこれ以上ない成功といったところだろうか。
そうしたビジネスモデルにおいて、ツイッターなどのアカウントはあくまで物語の外側に存在するものであり、視聴前に期待を抱かせるための情報発信、すなわち「広報」は担えても、その後の評価の回収である「広聴」にはならなかった。
また、ツイッター以前には、ドラマの公式HPには掲示板が設けられていることもあったけれど、これはあくまで視聴者同士の一時的な(ドラマの放送終了時までの)交流ツールにすぎなかったし、そこに物語の内部が関わることはほとんどなかったはずである(さらに言えば、プラットフォームが公式(局)側にあったのだから、どのようなコメントを掲載するかの判断は局にあったし、視聴者も公式の目の前で感想をすべて書けるわけではなかった。)。
それが、このアカウントでは、結果的に「広聴」まで担うことができた。
単なる視聴者への情報発信だけではなく、視聴者の生の「感情」を届ける、評価である「感情」そのものを回収するための双方向のツールとして機能したのだ。
確かに「武蔵の部屋」は「遊び心満載」のアカウントで、貴島プロデューサーのインタビューによると、スタッフのフットワークの軽さから、こんなアカウントがあったら面白いという発想で作ったものらしい。
しかし、だから、それがーー大げさな言い方をすれば、視聴者の「感情のデザイン」とも言うべき手法がーーどこまで意図されたものか分からないけれど、結果的に、ドラマの世界を拡張させた。6話で感情移入した視聴者、いわゆる「OL民」たちのドラマへの没入感を持続させたのは、このアカウントに他ならないと思う。
あの1週間、私たちは黒澤武蔵の投稿に、どれだけ心が揺れたことか。
SNS「武蔵の部屋」が私たちに見せるもの
さて、ここまでドラマ放送中のことを中心に語ってきたけれど、最後に現時点(2018年8月18日時点)での「武蔵の部屋」の最新投稿について、触れておきたい。
ドラマが放送終了したあとも、「OL民」たちの熱は冷めなかった。ツイッター上では、実際には存在しない「第8話」を実況し、そして、ドラマ中で一瞬だけ映った黒澤武蔵の誕生日を祝う生誕祭まで行った。
そのような中、「武蔵の部屋」は更新された。最終回だったはずの「第7話」のその先の黒澤武蔵が、そこにはいたのである。
「黒澤武蔵生誕祭」で盛り上がるなか、その更新はなんら違和感なく喜びをもって受け止められたけれど、個人的にはこれは凄いことだ、大げさに言えばドラマのあり方を変える投稿だ、と思った。
ドラマというのは、例えば1クールという一定期間の連続性があらかじめ示されている一方で、第○回で最終回を迎えるというゴールが明確にある。
ある期間は追いかけることができる。しかし、必ず終わりが来てしまう。
追いかけられるけど、追い続けるのは難しい。ファンからするとなかなか難儀なコンテンツである(だから、ドラマ自体を追いかける人は徐々に減っていき、次第に出演していた俳優自身へと関心が移っていくのが一般的ではないかと思う。)。
私自身、好きなドラマにはのめり込むタイプということもあり、これまでに、様々なドラマが盛り上がるところを見てきた。
しかし、一時的に強い盛り上がりを見せても、割と早いうちにその火は消えてしまう。
それがこのドラマはどうか。
放送が終了したドラマの登場人物が、さも実在するかのように投稿を行う。我々視聴者の反応に対し、答えを出すのだ。
その瞬間、明確な続編があるわけではないけれど、間違いなく一度終わりを見せたドラマなのに、少しだけ、その先が見える。
そして私たちは、その投稿に、また素直に自らの「感情」を寄せる。
このあたりの「感情」の双方向性が、いまだにザテレビジョンの「視聴熱」ランキングで上位に入り続けている理由だと思う。
ドラマは終わったけれど、まだ私たちの中では終わっていない。キャラクターたちは今日も生き続けているのだ。
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