#おっさんずラブ の魅力~田中圭か春田創一か。恋に気付いたその後~

このドラマを語る上で絶対に外せないのは、座長・田中圭と春田創一の存在だろう。

今回は田中圭と春田創一を中心にこのドラマのいわゆる「生っぽさ」を語りたい。


春田創一の「違和感」

牧凌太のことは、6話の初見時から「存在感」という3文字がしっくりきたのだけど、春田創一の場合は逆に、良い意味で存在感が強すぎない。とにかく自然だと思う。

このドラマでは、春田自身が動き出すことは少なく、基本的には他の人物たちに巻き込まれながら物語が進行していくので、彼は主人公といっても、巻き込まれ型の主人公である。

この巻き込まれ型の主人公というのは、自分自身の信念に基づいて主体的に行動することが少ないので、キャラクターの本心が見えづらい。単なる良い人、若しくは良い意味で空気になりがちだと個人的には思っている。

春田についても同様に自分の気持ちを伝えるシーンが少ない。もちろん、彼が、誰に対して、どのような形で気持ちを伝えたいと思うのか、というのが恋愛ドラマとしてのひとつのゴールだから、それが当然の部分もある。


そんな春田創一に「違和感」を感じたことが2度ほどある。

一度目は第5話。牧凌太と付き合うことになるこの話は、春田の牧に対する想いが色濃く描かれ始める、コメディタッチの物語に変化が現れるきっかけとなる重要な回だけど、特に印象的なのが、春田が牧に告げる「恥ずかしくないから。牧と一緒にいることは俺にとって全然恥ずかしいことじゃないから」という言葉である。

それまでの春田は周りに流されてばかりだったが、このシーンの彼は、自分の気持ちを自分なりの言葉で伝えようとし、それまでのふわふわとした印象とは全く違って見える。

二度目の「違和感」は、7話。結婚式のシーン。黒澤との誓いのキスを目の前にし、自分の気持ちに気が付く。その途端、想いが溢れだし、嗚咽が止まらなくなる。

どちらのシーンも、胸に迫る素晴らしいものだ。一方で、それまで春田創一に抱いていたイメージとはややかけ離れているようにも思えて、実は私は違和感のようなものを感じていた。心がざわざわとするような、違和感。

それを「田中圭がイケメンに本気を出してきた」なんて稚拙な表現をしていたのだけど、なぜここまで心が動かされるのか、やはり私は上手く言葉にできなかった。


しかし、このドラマが最終回を迎えてから早3か月。

これまでの間に、圭さんのインタビュー記事やブログをいくつか読み、更には「サメと泳ぐ」の観劇の機会までいただいた。

その中で、少しずつ、田中圭の凄さや、春田創一に感じる「生っぽさ」の理由が整理されてきたので、今思うことを言葉に落としておきたい。


「演じる」のではなく「曝け出す」

これはあくまで個人的な感想だけど、田中圭――圭さんのお芝居というのは、「演じる」というよりも「曝け出す」という言葉に近い印象を受けた。

「役を演じる」という言葉は、自分とはまったく異なるキャラクターを(自分との相違点を比較しつつ)当てはめていくような印象を持つ。様々な仮面を、役柄を演じる都度付け替えるイメージだ。

しかし、圭さんについては、仮面を「かぶる」よりも、どちらかというと、仮面を「はがす」という言葉の方がより近い気がしている。

自分の内にあるものを曝け出す、自分がその時に感じる感情を一切隠すことなく、取り繕うこともせず、全て吐き出す。そんな印象を受けた。

これは特に同じ空間を共有する演劇においては顕著だ。

私は「サメと泳ぐ」を観劇した際に、正直、半ば動揺さえしてしまった。なぜ、この人は、これほど大勢の前で、ここまで自分の気持ちを曝け出すことができるだろうと身体が強張った。

たとえて言うならば、目の前の人に、私は知る由もなかった、その人の本音を突然打ち明けられる、そんな感覚に近いと思う。綺麗に取り繕われた、先が予想できる建前では無く、何が起こるか分からない、混沌とした本音で突如として向かって来られる。ある種おそろしさ、緊張感すら感じた。

本音で向かってこられると、必然的に私自身も本音で対峙しなければならない。こちら側の仮面すら剥がされてしまうような恐怖。そういう類の、心のざわつきだった。


それは決して、舞台の上のお芝居だけではなく、ドラマでも同じなのではないかと思う。

おっさんずラブにおける前述した5話や7話、あるいは6話、7話のラストシーンもこれに近いものがある。私たちは春田創一の、ひいては田中圭の本音を打ち明けられたからこそ、あれほどまでに動揺させられたのではないだろうか。

田中圭はまるで春田創一そのものなのではないか。そんなフレーズを見かけることがあるけれど――圭さんのファンではない私が圭さんについて言及するのは恐れ多いと思いつつ、誤解を承知で自分の考えを書くと――春田創一――特にあのふわふわしていて、自分というものが明確になく、みんなの思いを受け止める、誰にでも優しい春田創一――は、田中圭という俳優の「日常」に一番近いのではないか、という気がした。一般的に視聴者が想像する、ニュートラルな、俳優として、外向きの「田中圭」に近いのではないか、と。

しかし、彼の演技――お芝居、と言った方がいいのか――は、そのニュートラルさから、一歩踏み込んで、彼のその時感じる本音をこれでもかとぶつけられるような鋭さがある。

ある意味、あのふわふわとした春田が一番(言葉の選び方に迷うけれど)「建前」なのではないかという気すらしてしまう。田中圭の、春田創一の、自分の本音から距離を置いた、取り繕った「建前」。あるいは「外面」。


圭さんのお芝居の「生っぽさ」は、この彼自身の本音を曝け出すようなところにあると思う。

もっといえば、このおっさんずラブというドラマにおける「生っぽさ」、ひいてはその魅力は、彼が本音を曝け出したところで、吉田鋼太郎にせよ、林遣都にせよ、きちんとその本音を受け止めて、彼ら自身がその時感じる感情をそのまま素直に返すところにある、と思っている。だからこそ感情の動きが生々しく、どうなるか予想がつかず、視聴者の感情も揺さぶられる。

もちろん、その前提として脚本が存在するのだし、ドラマとしての画があるわけで、シーンとしてのゴールが存在する。でも、彼らの素晴らしいところは、脚本に書いてある言葉の裏側にある感情を大切にしているところだと思う。その時、彼ら自身が感じる、生々しい感情。言葉は脚本通りでも、おそらく、その言葉の裏側にある感情はひとつとは限らない。「冗談ですよ」という言葉が必ずしもその言葉通りの真意を伝えたいわけではない。言葉と感情は時に一致しない。田中圭をはじめ、このドラマの役者たちは、その言葉と感情の不一致までも見事に演じられる、自分の感情を言葉に乗せることができる、凄まじく器用な職人たちだと思う。


そして、ひいてはそれがおっさんずラブというドラマが今日までツイッターを中心に盛り上がっている理由のひとつでもあると思う。


少し話題が逸れた。話を戻そう。


田中圭か、春田創一か――恋に気付いた、その後

圭さんは俳優にしては自分の想いを言葉で語ることの多い人だと思うのだけど、春田創一について語るインタビューやブログを読んでいると、「主観的な語り」が多いように感じる。

特に最終回後のものは――おっさんずラブというドラマの構造上、当初は春田と黒澤のコメディに見せかけて、実は春田と牧の恋愛ドラマなのだという視点の転換があるからこそ――それまで語られることが少なかった、牧への想いを振り返り、語られることが多かった。

撮影中と撮影が全て終わった後で意識が違うのかどうか、そこまでは分からない。

しかし、ドラマのそうした構造もあり、結果的に、圭さんのインタビューは、最終回が終わってからの方が明らかに牧への想いが溢れているように映るのだ。

例えば、公式ブックの春田のインタビューにおける「春田はみんなの気持ちの中で終始揺れ動いていたけど、きっと、1話からもう牧のことが好きだったって思うんです。」という語りがまさにそれだ。

これに限らず、圭さんは、最終回後のインタビューでは春田は最初から牧が好きだった、と明言している。

私はこれを読んだときに、なんて主観的な演技をする人なんだろう、と思ったし、なによりも、まさにこれこそが恋じゃないか、と震えずにはいられなかった。

自分の気持ちを、自分自身が分からないときは、自分の行動の理由が理解できない。おっさんずラブにおける春田は、まさにその状態だ。

しかし、それが恋なのだと気付いた後は違う。後から振り返れば、分からなかった行動の理由は全て「あのときはもう好きだったから」になるのだと思う。

春田が牧と第二営業所で再会したときにはしゃいでしまったのも。ポスティングで遅くなった牧と偶然会い、嬉しくて声をかけてしまったのも。何気なく、ルームシェアに誘ったのも。出ていこうとする牧に「なんで武川さんなんだよ」と苛立ちを隠せなかったのも。

みんな、そのときは理由が分からなかったし、そのときの春田が本当はどういう気持ちだったかなんて、過去のことはもう分からないけれど――恋に気付いた彼が後から振り返れば、それはきっと全て「牧が好きだったから」に集約されてしまうのだと思う。

最終回が終わってからこれまで、田中圭という俳優は、それを自然とやってしまった。だからこそ、このドラマは凄いのだと思う。何度もその意味が変わるドラマ。だからこそ、何度だって見てしまう。

彼が春田として物語を振り返り続ける限り、おっさんずラブというドラマは続いていく。そして春田の向こうには牧がいて、黒澤がいて……

最終回を迎えても、なお続きを見せてくれるような不思議さ。

それは、この田中圭の「生々しい」感情から生まれているのだと思う。

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