#風博士 ~「生と死」と「本当と嘘」という対立~

はじめに

風博士を3回観劇する機会に恵まれた。率直に言うと、私はいわゆる「戦争モノ」があまり得意ではない。おそらくその意識もあり、初回、2回目とこの舞台が伝えようとしていることが正直あまり分からなかった。もちろん、戦争を扱う以上、テーマはある程度決まってくるし、予測もできる。ただ、風博士という舞台はある意味でひねくれていて、そのテーマを素直には伝えてくれない。真正面から描かずに、少し外してくる。それゆえに、私はこの舞台が何を伝えようとしているのか、どこを見て欲しいのかを理解することがなかなかできなかった。

3回目にして、ようやく風博士の面白さの片鱗に触れられたような気がしたので、個人的な備忘録として残しておきたい。


風博士の難しさ

初回、2回目とこの舞台が伝えようとしているテーマが実はあまり自分に沁み込んでこなかった。ぶっちゃければ、どうしてもこの舞台を面白いとは感じられなかったのである。

でも私はその理由が分からなかった。脚本の問題なのか、演出の問題なのか。役者の問題なのか、途中で入る歌に意識を持っていかれるからなのか。3回目にしてようやく理解した。この舞台は、脚本が非常に難しい。端的に言うと、台詞が断続的にあり情報量が多いのだが、その台詞に比喩表現、もっと言うと暗喩表現やメタ的表現が多く、本当に言いたいことを二重三重にもオブラートに包んでいたり、かなり遠い言葉に言い換えていたりする。だから、意味が分からない台詞が出てきたときに、その意図を吟味しているうちに物語が進んでしまう。あるいは、一瞬舞台の外に意識が飛んでしまう。または、分からないからこそ無意識に聞き飛ばしているその台詞が、さらっと何気なく発しているその言葉が、物語の根幹を担っているのではないかという気がしている。

戦争の恐ろしさ、無常さ、理不尽さ。この舞台は、そうしたものを分かりやすい言葉では表現しない。これはおそらく脚本家の方の表現スタイルなのだと思うが、本当に言いたいところをまっすぐに描かず、少しだけ外してくる。例えばそれは、それぞれの登場人物たちの、それぞれの背景に従った行動の中に薄っすらとにじみ出る、というように。

風船爆弾を作りながらも、その存在に疑問を感じ嘘をついたフーさん。「本当」を求めるサチ子。間諜の息子だったからこそ、初年兵となりながらもただ敵国を恨むことはできないスガシマ。国に要職にありながら、「国が無くなっても山と川さえあればいい」と生に貪欲な鶯。自らの中隊を犠牲にしないため、敵国の「ハト」になった広瀬大尉。戦争になるとみんな馬鹿になってしまうと怒りを露わにする梅花。彼らは生きようと必死に藻掻くけれど、その生への貪欲さ、死への恐怖、戦争への怒りはどこか皮肉めいている。明るい中に隠された悲しみや絶望。だからとても難しい。



この舞台に解釈の軸を一本通すとしたらなんだろう。

観劇しながら頭を悩ませ続け、3回目でようやく思い至ったのが、「生と死」、「本当と嘘」という対立であった。

そして、それを表現しているのが、林遣都演じるスガシマと、吉田羊演じる鶯であり、その二項対立に気が付かせ、超越しようとする存在が趣里演じるサチ子ではないかと思い始めた。


「生と死」と「本当と嘘」という対立―スガシマと鶯の対比

この難しい舞台の中で、実はとても重要な立ち位置なのがスガシマだと思う。

これはネタバレになってしまうが、スガシマは物語の中盤で敵兵に撃たれてしまう。

彼の出血を止めようとフーさんたちは尽力するが、その甲斐も無く彼の命は尽きてしまう。

恋を知らず、女も知らずに亡くなった彼の掌に鶯は自分の乳房を当て、お前が赤ん坊の時に求めたものだと、みんな同じところから産まれたのになぜ争うのかと声を荒げる。このシーンはこの舞台においても非常に感情的であり、主題を伝えてくる大事な場面である。ただ、私が注目したのは、それに続くシーンである。スガシマの亡骸をフーさんたちが運んでいる最中、死んだ彼(おそらく、それが彼の霊魂なのであろう)は静かに立ち上がり、鶯を一瞥して去っていく。「死の世界」へと旅立ったスガシマと「生の世界」に残る鶯。

この対比が、私はこの舞台で非常に印象に残ったのである。なぜならば、この対比においてスガシマが、この舞台上で唯一生と死をつなぐ存在なのだということが明示されているからである。


余談であるが、博士の観劇機会に恵まれた私が、この舞台で一番好きな彼の芝居は、亡くなったスガシマを演じているこの数十秒である。

それまで初年兵らしく感情をほとばしらせていた彼が、若さゆえの優しい思い込み(勘違い)で敵国の兵士に撃たれ死んでしまう。もっと生きたかった、人生が何か分からなかった、恋をしたかったというスガシマは、もうそこにはいない。サチ子の前で見せたきらきらとした表情が消えうせ、その表情は空虚ですらある。

死んだあとの人間が何を想うか考えて演じる機会は、おそらく映像の世界ではほとんどないのではないだろうか。死後の世界を生身の人間が演じる、これは舞台ならではである。

このときの林遣都が何を想い、どういう気持ちを作り、静かに立ち上がり鶯を一瞥し、舞台を去っていくのか。私はいつもそこに思いを馳せてしまう。林遣都という俳優に死後の世界に向き合う機会を与えてくれたことに、全くの他人ながら私は風博士という作品に感謝すら感じてしまうのである。


素直さが仇となり死の世界に旅立ったスガシマと、生きるために自分を偽る=「嘘」を重ねることを決めた鶯。この対比が哀しくも美しい。「どうせ ゆくさき 地獄じゃけんど うつつの身よりは 棲みよかろ」、死者を送る彼女の歌はまさにレクイエムである。


生と死をつなぐスガシマ。彼の重要さは、舞台の終盤で機能していると個人的には認識している。

この点が、この舞台の解釈が分かれる部分ではないかと思うのだが、私は最終幕をフーさん、広瀬大尉、サチ子、梅花はみんな亡くなったあとなのだと解釈している。その直前に「生きている最後の日に見るような星空だった」という字幕があることこそが、最大のミスリードなのではないかと理解した。「生きている最後」と言うものの、本当は全員、あの爆撃で死んでしまっているのではないか。だからこそ、敵国の兵士に偽っていたはずの4人ともにいつもの服装に戻っているし、もっと言えばモンペ姿だった梅花は戦時中とは思えないような華美な服装をしている(と思うのだが、このあたりは着替えのシーンの記憶が曖昧のため、誤りがあれば教えて欲しい)。あれは亡くなった彼らの「本当」=求めていた姿を見せているのではないか。一方、生きることを選んだ鶯は、自分が「本当」にありたい姿=フーさんの追っかけとしての芸者ではなく、敵国の兵士としての姿で現れる。あの一瞬、亡くなった4人と生きることを選んだ鶯が、星空の荒野の下で交わるのである。その「死の世界」と「生の世界」、あちら側とそちら側をつなぐ存在こそが、他でもないスガシマである。サチ子が「ホイチ!」と彼の存在を見つけたところで、フーさんは彼女を慈悲深く抱きしめ、広瀬大尉は一瞬はっとする。おそらく、その時点で彼らはようやく自分たちがスガシマと同じ世界に来た=死んでしまったことに気付くのだ。スガシマは階段を下り4人と再会を果たし、鶯は一人階段を上り、こぶしを静かに胸に当て目を閉じる。まるで亡くなったかつての仲間たちに哀悼を捧げるように。ここでもまた、「死の世界」のスガシマと、「生の世界」の鶯が対比されている。


しかし、生に縋った鶯さえ最後はあっけなく亡くなってしまう。それが「エピローグ」であると認識している。

このシーンでは、堂島と佐々木、宮本が鶯を見つけ、銃を向けるが、そこに現れたフーさんがニトロ爆弾を投げ込み、3人は吹き飛ばされてしまうという、ある種コント的なシーンが展開される。動的なそちらに目が行きがちであるが、一方で鶯は堂島たちの放った弾に当たったかのように倒れて動かなくなる。フーさんと堂島たちのやり取りが一通り落ち着いた後、起き上がった鶯は、それまでの間諜としての立場をあっさりと投げ出し、やはりフーさんの追っかけでいたいと階段を下りてくる。私はそれこそが鶯の死と「嘘」を重ねてでも生きようとした彼女が、生から解放され、「本当」の姿を見せているのであると解釈した。

戦争の悲惨さを扱う一方で、ラストシーンは全員でハーレーに乗り、妙にどこか明るい。

おそらくあれは、全員が亡くなった後なのではないだろうか。戦争で入手できなかったはずのハーレイの部品が揃い、風爆弾となりそうだったフーさんの気象学はただ風に任せて荒野を進む道しるべにだけ使われる。

だからこそ、最後には一升瓶が静かにただひとつ置かれているのである。あの瓶は持ち主の不在、すなわちフーさんの死を意味している。


おわりに

この舞台はそういう意味で、スガシマと鶯の対比を通して、戦争の「死」と「生」、「本当」と「嘘」という二項対立を描いているのだと感じた。戦争については、個人と個人の争いではなく国の思想の対立というマクロの視点で描きつつも、その悲惨さを舞台上の人物たちの関係性に落とし込み、構造的に表現しているのではないかと理解した(このマクロの視点をミクロの人間関係に落とし込むという描き方は、同じ世田谷パブリックシアターで上演されたチャイメリカを彷彿とさせるところがある。)。

芸達者な役者さんが揃っている中で、まずは構造が非常に凝った作品であるという認識を得られると、ようやくその中で一人一人が一体どのような役割を担っているのか、台詞にどういう意味を与えているのかという一段階下の解釈を考えられるように思えた。そういう意味では、私はこれまでに3回もの観劇の機会を得たものの、この風博士の面白さの片鱗にようやく触れられた程度なのではないかと感じている。ようやくスタート地点に立てたという認識である。もし、もう一度観劇の機会を得ることができるのならば、これまでとは違った視点で私はこの舞台に向き合えるのではないかと感じている。

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