#おっさんずラブ の魅力~牧凌太の説得力~

このドラマについては、語りたいことがありすぎるのだけど、まずは全話を見て感じた魅力を何回かに分けて書いていきたい。


沼落ちのきっかけは牧凌太

このドラマにここまで熱を上げるようになった理由を語るときに、“あの”6話は避けて通れない。

5話までは割と普通の視聴者だったけれど、6話の終了後にはすっかり「沼落ちして」しまった。そのきっかけは言うまでも無く、「牧凌太」のせいである。もっと言えば、「牧くん」という存在に真綿で首を絞めるように、ゆっくりと命を奪われていることに気付いたのが6話だったし、気付いた時には既に遅かったと言うべきかもしれない。


おっさんずラブの魅力を語るときに、牧凌太の存在は欠かすことができない。


また、個人的には彼の凄さに気が付いたところから、このドラマの深さに気が付いたので、まずは「牧くん」について、思う存分に語りたい。


恋愛ドラマかコメディか

いきなり個人的な話で恐縮だけど、私はBLというジャンルにはこれまでほとんど興味が無かった。

「ほとんど」という言い方はなんとも曖昧なのだけど、要は、BLがテーマだから見ようと思ったこと、つまりBLそのものが選択の積極的な動機になることがあまりなかった。

もっと正確なことを言うと、そもそも恋愛ドラマ自体に興味が薄かった。

例えばBLなら男と男、いわゆる恋愛ドラマならば男と女が付き合う(この場合の付き合うというのは、必ずしも「お付き合いをする」ということではないんだと思うんだけど。もっといえば「関係性を持つ」ということかなぁ。)ということは決まっていて、その設定ありきの中で進んでいくという「お決まりの流れ」、そしてその「お決まりの流れをいかに脚色するか」というテクニック先行の作りがとても苦手だった。

BLというジャンルも同じで、「BL」とカテゴリー分けをした時点で、「男と男」が「恋に落ちる」というゴールが先に固定される。そのプロセスばかりやたらデコレーションされ、設定ありきで物語が展開されていく。

いずれも多くの物語生まれ、市場が飽和した現在、いかに凝った設定にするか、そればかりに重きが置かれているようで、どうしても登場人物たちの感情の移り変わりが素直に楽しめなかった。

だから、誤解を承知で言うと、このドラマについても、その斬新な設定で勝負にきているのだとばかり思っていた。

また、牧凌太については、話の展開を盛り上げるための、よくいる本命にはなり得ないけど、視聴者からは一番人気のある美形の3番手、くらいの認識でしかなかった。

そりゃあテレビ的には、田中圭と林遣都がキスしたら絶対に盛り上がるし、良い話題作りなのだろうな、くらいの気持ちで見ていた。

だから正直、5話までは牧凌太の存在にそこまで何かを感じていたわけではなかったし、おっさんずラブというドラマはコメディ色がかなり強めのラブコメディなのだと思っていた。


その認識ががらっと変わったのが6話だ。


視点の変化~視聴者に感情移入させる~

何も知らない視聴者からすると、このドラマはコメディに見える。また、実際1~3話あたりまで特に思い入れもなく見ていけば、大笑いして見られるラブコメディである。

しかし、6話は1~5話とは物語の視点が突然変わる。突然なので視聴者はほとんど気付かない。

しかし、その視点の変化こそが、このドラマが単なるコメディでは無く、恋愛ドラマたる理由のひとつだと思う。


このドラマは、春田のモノローグや心の声が多用されているように、1~5話まではほとんど春田の視点でドラマが進んでいく。

途中、黒澤部長と蝶子さんのシーン(多数)や、わんだほうの土地買収を訝しく思った牧がひとりで周辺を聞き取りに回るシーン(4話)、ちずの春田に対する気持ちを匂わせるシーン(5話)もあるけれど、基本的には、春田から見た黒澤や牧、第二営業所の面々、鉄平にちずの姿が描かれている。

一方で、6話はそれまでほとんど見えなかった牧の視点で物語が進んでいく。

ちずに「春田に告白しても良い?」と余裕の無い顔で追い詰められる。

ひとりで春田家に帰れば、春田の母が返ってきたところに遭遇してしまい、「これからも創一と良いお友達でいてね」と心無い一言に傷つく。

とはいえ、牧はそれらの出来事に対して、決して本音は口にしない。

「やっぱ、完璧だよ。牧くん」というちずの言葉のとおり、相手の気持ちを察して、最も望まれた答えを口にする。

でも、私たちは、それが牧の本音ではないことが、痛いほど分かる。

彼の雄弁すぎる目の動き、瞳の揺らめき、細かな表情で。彼は一言もネガティブな言葉を口にはしないのに、その言葉が嘘だと言うことが、嘘だけどあえて明るく努めているのだということまで、見ているこちらに伝わってくる。

それまでは、春田の視点から牧を見ていたのに、気が付けば、牧の視点から春田やちずのことを見ていることに気が付く。


もっと言えば、決してそれは6話に始まったわけではない。

ラブコメディに見せかけて、実はそのための布石を、4話当たりから着実に打ち始めている。

例えば、4話。わんだほうを取り戻すときに見せた男気と聡明さ。その一方で春田の横では隠せない揺れる瞳。春田の口からちずの名前が出ると、付き合っていることを強く匂わせる心の揺れと独占欲。

付き合うことを描く5話はさらに顕著に、春田との関係性に対する牧の不安が描かれ始める。会社帰りに偶然ちずと会った春田を見つめる姿。春田の手に触れてしまう後ろめたさ、その一方ですがるような瞳の動き。

ただ、上で書いたように、私自身は、このドラマを単純なコメディ色強めのラブコメディだと思っていたので、吉田鋼太郎演じる黒澤部長や、眞島秀和演じる武川政宗と春田のやり取りに笑っていた。

当時の「一般人」の私は、コメディに偽装したこのドラマが、着実に「恋愛ドラマ」という石を置き、囲みに来ていることに気が付かなかったのだ。


コメディだと思っていたそのドラマで、すっかりと牧に感情移入しきっていた自分がいたし、だからこそ、黒澤武蔵とのラストシーンが流れた瞬間には動揺すらしてしまった。

私が今見たものは一体なんだ!?


牧凌太の説得力

こうした牧凌太に対する感情移入の源泉を、牧凌太の「切なさ」と、制作サイドからは語られることが多いけれど、私が最初に浮かんだのは「説得力」の3文字で、自分の中で一番すとんと落ちたので、この言葉をどうしても使いたい。

牧凌太の存在には独特の説得力があって、だから私たちは彼に感情移入をしてしまう。

そして、それこそがこのドラマが一部ファンから熱狂的に支持される理由のひとつだと思う。


そもそも、牧の存在はあらゆる面で二面性がある。これを単純に列挙していくとかなりリアリティの無いキャラクターではないかとやや思う。

1~4話のコメディパートでは、主に男らしさが描かれる。

本社で豊洲再開発を手掛けたエース。しかし、営業所の地味な仕事にも真面目に取り組む。

また、春田に対しては、アグレッシブかつ衝動的に迫り、黒澤武蔵のライバルとしての側面が全面に押し出される。

一方で、5~7話、特に6話の牧は、かわいらしさを中心に描かれている。あらゆる人の望みを受け止め、自分ひとりの中にため込んでいく。受動的で、内省的である。あるいは、時に「小悪魔」的、無邪気ですらある。

春田に冷蔵庫の夕飯を伝えながら、その冷蔵庫に入っているであろう武川の手土産を思い浮かべたのか、いたずらな笑みを見せる姿。

幼馴染の話をされれば、両親に会って欲しいと、彼氏としての立ち位置を主張してくる姿。

「春田さんが初めてのわけじゃないし」と嫉妬を煽る意地悪な顔。

そんなすべてをひっくるめて、とにかく、とんでもなくかわいらしいのだ。


1~3話で見せる、聡明でそつがないのに、こと恋愛になると感情が溢れるままにぶつけてしまう乱暴さと荒々しさ。4~7話で見せる、独占欲と言葉にできないほどの嫉妬、コントロールできない感情。

こうして書くとリアリティの無い、ファンタジーのような存在だと思う。

しかし、その青年にリアリティを与えたのが林遣都だ。

確かに牧だったら、きっとこう思うのだろう。牧だったら、ここでこういう反応をするし、そうしたら、確かに春田や武川は、そのように受けざるを得ないだろう。

ひとつひとつの演技に無理がなく、そう思わせる。

彼は、気持ちの多くを口にはしない。春田や武川をはじめ、登場人物たちにだって全部は見せない。

でも、カメラの向こうの私たちにはこれでもかと伝えてくる。目の動き。顔のこわばり。ちょっとした身体の使い方。泳ぐ視線。余白まで想像し、考えさせられる。

設定だけ見れば、あまりに完璧すぎる、漫画のような青年。

しかし、その感情の動きには、非常にリアリティを感じる。まるで牧凌太が本当に存在しているように。それは、ひとつひとつの行動に無理が無く、筋が通っていて、説得力があるからだと思う。だからこそ、その裏側にある感情も、嘘ではなく、本物に見える。

その言葉にはしない心の揺れに、見ている私たちは、心を寄せずにいられなかった。

そりゃあ、牧牧牧って、春田でなくても言いたくなる。


おわりに

さて、6話で牧凌太の説得力に一気に「沼に落ちた」私だけど、ではこのドラマは林遣都がただ素晴らしかっただけなのか。

そんな単純ではないことは容易に分かった。

6話全体を覆う「牧凌太の切なさ」と視聴者の彼への強い感情移入は、このドラマにおいて、制作者と俳優が一丸となって生み出した、ひとつの結果である。

もっと言えば、この牧凌太の切なさこそが、このドラマがコメディではなく、質の高い恋愛ドラマになっている肝でもある(多くの媒体で田中圭は「林遣都にかかっている」と撮影当初に伝えたことを語っているが、それはまさにこの点にあると思う。)。

この切なさは決して林遣都ひとりの演技によって作り上げられているものではなく、彼の演技を中心に、スタッフと役者が総力をあげ、狙いを定めて作りにいったものに違いない。

脚本や構成はもちろんだし、その切ない表情の切り取り方を始めとした演出はさすがとしか言えない。そしてそれぞれの登場人物との関係性、心のうつろいに無理がないのは、見事としか言えないだろう。

あるいは私たち視聴者の感情の行き先=“SNS”を使ったコミュニケーション、オン(放送中)はもちろんのこと、オフ(それ以外の時間)の感情すら狙いにくる、飽きさせない・忘れさせない仕組み作り。

そこに至るまでのひとつひとつを考えていくと、このドラマがいかに狙いを定め、それに向かい丁寧に作られているかは明白だ。

そして、その丁寧さこそが、放送終了後2か月を過ぎても視聴熱ランキングに載り続けるようなムーブメントを起こしている原動力に他ならないと思う。

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